どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

異邦人の案内

 道をなにげに歩いていると、人が困っているようだった。どこかに行きたいらしいが、そこがどこにあるのかわからないように見えた。よく見ると異邦人のようだ。ぼくの言葉は解すらしい。
 どこに行きたいのか、と尋ねると、よくわからないという。ぼくが言っていることは解るらしいが、どこに行きたいのかわからないのである。不思議な話だ。どこかへは行こうとしているのに、どこへ行こうとしているのかわからない。それでは道案内のしようがない。その人はすっ、とスマホをこちらに見せてくる。そこには
『ぜんぜんわからない』
と書かれている。
「なんのこと?」と訊くと、
「人生のことだ」と応える。そして、そのまま尋ねてきた。
「あなたはどこへ向かうつもりなのか?」
──ぼく? ぼくはどこへ行こうとしていたのか。
「うーん、どこだろうね。家に帰ろうとしていたのかな」
「そうですか。わたしには、行きたいところがあるのです。いつも、そこに向かっている」
 その人は爛々とした目を持っている。しかし、なにも分かっていないようにも見える。厳かな無垢さを感じる。そうして、放っておいたら、どこかへ行ってしまいそうな、危うさがある。車が手に入るのなら、それに乗ってどこまでも行きそうな。ただし、交通ルールを知らないかのような、そんな感じ。
「あなたは、どこに行きたいの?」
 何かをわかったかのように、ぼくは質問した。
「ぜんぜんわからない」
 その人は、そう応えると、その瞳をわたしに向けたまま潤ませた。
「そうなんだ。ぼくもそうかな。ぼくには、できないことだらけだから。大して自由もないし、どこかへ行けるというわけでもないし。やりたいことがあるわけでもない」
「あなたは、なにかをやろうとしていましたか?」
その人は全くの興味を剥き出しにして、そう言った。
「そうだねー。なにかをやろうとしていたかもしれない」
「それは、うまくいきましたか?」
「どうだろうねぇ。うまくいかなかったかもしれない。したいことがなんでもうまくいくわけじゃないよ。人には人の性分ってものがあるからさ」
その人は深く頷いて、こう言った。
「あなたがそれを”できない”ことにまつわるすべての行動は、それをしたくない気持ちの表れです」
「? どういうこと?」
「本当にそれをしようと心から思うのなら、少なくともそれに向かっていくはずです。そうしないのなら、それはあなたの心が現れている、ということです」
「……。」
「わたしはいつもどこかへ向かっている。それは家でもあるかもしれないし、最期に行き着く先は、棺桶です。その途上には、何かが落ちているかも。それを拾おうとしなければ、なにかを得ることはありえないでしょう」
 ぼくは、なんだかつらい気持ちになった。道案内を買って出たのはぼくの方だったはずなのに。いつの間にか、案内人はこの人になってしまった。ぼくは、どこへ向かおうとしていたのだろう。ぼくは、何処かで何かを諦めたのだろうか。そんな自覚もないままに、いつの間にか何かに追われて、日々を過ごしていた。ただぼくは家に帰ろうとしていただけだった。
「生まれたところによって、価値観も美意識も人生観も違います。でも、人間は何処で何をしていても、同じです。自分の幸福を求め続けるだけの生き物だ」
「そうかもしれない。そして、それに……」
 ぼくは気がついていない、と言いかけたところで、ユメから醒めたのだった。

めんどうな男と、それを流す女

 その男のなにが面倒なのかというと、起こり得ないことを妄想してしまうことだ。なにも仰々しいことではなくて、些細なごく普通の生活のことについて、いつも思いを巡らせてしまう。それも変に筋立って考えるのでタチが悪いようだ。前提からして起こりそうもないことをこねこねと頭の中で揉んでから、それをポロっとこぼす。
 例えば、本の上に食べ物を置かないでほしいだとか、電車に乗るときはなるべく車両の真ん中のドアから乗ったほうが座るチャンスは多いだとか、夕立に降られてびしょ濡れになって歩いたら気持ちが良さそうだなー、だとか。
 その男は誰にだってそういうことをこぼすわけではないのだけれど、なんとなくもやもやと頭の中にそういったことが在ると、それがときたま外に出てしまう。
 それを聞く女がいる。いや、聞いている”ふり”をしている女がいる、という方が正しい。男もときどき、いまの理屈っぽいと思ったでしょ、と言ったりする。男も、女が話を流していることなど百も承知である。女はうんざりしつつ、話半分に受け流している。この人は、話をこぼしてしまうのであって、聞いてもらいたいというわけでもない、ということに彼が幼い時分から気が付いている。だから、聞き流す。そのことに男も別段に不満もない。
 こんなことを考えているんだゼ、と主張したいわけでもないようだし、男には自分が理屈っぽいという自覚があるというわけでもない。ただ、そう思っているであろうということには自覚があるし、それをその女が窮屈に思っていることもわかっている。女は、そんなに考えなくてもいいよ、とも思っているのだが、男はどうしても考えてしまう。
 そういう起こりもしないことを考えてしまうことが、その男のたくさんある欠点のうちのひとつである。つまり、出来もしないことも自分の考えや自分なりのやり方で出来ると思ってしまう。
 彼には、自分にできないことができるようになることがこの上もなく楽しいし、知らないことを理解することは他に代え難いほどにうれしいことのようだ。
 男はあるときに気がついたようだ。現実と向き合い始めた途端に、自分の妄想が顕著になっていく、と。それは当たり前のことなのだろう。その乖離や矛盾を受け入れずに、現実と向き合ったとはいえないし、夢をみているともいえないのだから。
 男は、流す女と男の父親と、つまり親子3人で映画館で観た『風立ちぬ』を想い出していた。あの映画は、妄想する男女のはなしであり、現実を受け入れていく男女のはなしであり、現実と夢を叶えるはなしだった。そして、人生という美しい旅の話であった。

わたしにとっての100円

 小さいころに初めてお金を手にしたときのことを、いまだに憶えている。それは、初めて自分の財布というものを手にしてからすぐのことだった。その財布がどうやってわたしの手元にやってきたのかはっきりとは憶えていない。赤いフェルトで出来たくつ下の形をしたお財布。おそらく、クリスマス商品のオマケにくっついてきたものを、母が私にくれたのだろう。
 わたしはそのくつ下を持て余していた。『それ』になにを入れるべきなのかさえも理解していなかった。
 くつ下型の、足を入れるところに付いているファスナーを開け閉めしているわたしを見て、父が自分の小銭入れから100円玉をわたしに手渡してくれた。それが、わたしが初めて手にしたわたしのお金と言えるものだった。わたしはその100円玉を愛でた。「100」という数字は分からなかったけれど、それがお金で、お金でなにができるのかは、なんとなく知っていた。
 わたしは、そのコインをくれた父に申し訳なく思った。愛でつつも、このお金を貰っていいのかと、何度も訊いた。父は、
「いいんだよ」
と応えた。わたしはなぜかしら不安だった。それを使って何かを手に入れられるものを、そんなに簡単に手にしていいのか、と。お金というものは働いて得るものなのではないのか。お金というものが、いかに大事なものなのか、知識として知らされていた。
 お金を手にして不安な顔をしているわたしを見て、父は言ったのだった。
「じゃあ、こうしよう。お父さんが棺桶に入ったときに、きみは100円玉をぼくのために飾ってくれないか。」
「カンオケって?」
 わたしは父の言うことを遮って訊いた。
「カンオケっていうのは、歳をとって冷たくなったら入る箱だよ。お父さんが冷たくなったら100円をぼくに返してくれたらいい」
「ふーん」
「いま、きみが持っているその100円でなくてもいいんだよ。お金というのは、その額面が大事なんだ。そのコインに『1』『0』『0』って描いてあるだろう? それがそのお金の価値なんだよ」
 わたしは何かを理解したような気持ちになって、父の話を聞いていた。
「とにかく、その時まで、100円をきみに貸しておくから。その時に返してくれたらいいんだよ」
 父はそう言ってわたしを見つめると、自分の居どころに身を帰した。
 わたしには、そのときから100円玉というものが重いものになった。100円玉を出し入れする度に、父にいつの日にか渡すはずのコインを交換している気になる。
 わたしにとって、100円とは、お金とは、つまり、そういうものなのだ。
(おしまい)