どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

めんどうな男と、それを流す女

 その男のなにが面倒なのかというと、起こり得ないことを妄想してしまうことだ。なにも仰々しいことではなくて、些細なごく普通の生活のことについて、いつも思いを巡らせてしまう。それも変に筋立って考えるのでタチが悪いようだ。前提からして起こりそうもないことをこねこねと頭の中で揉んでから、それをポロっとこぼす。
 例えば、本の上に食べ物を置かないでほしいだとか、電車に乗るときはなるべく車両の真ん中のドアから乗ったほうが座るチャンスは多いだとか、夕立に降られてびしょ濡れになって歩いたら気持ちが良さそうだなー、だとか。
 その男は誰にだってそういうことをこぼすわけではないのだけれど、なんとなくもやもやと頭の中にそういったことが在ると、それがときたま外に出てしまう。
 それを聞く女がいる。いや、聞いている”ふり”をしている女がいる、という方が正しい。男もときどき、いまの理屈っぽいと思ったでしょ、と言ったりする。男も、女が話を流していることなど百も承知である。女はうんざりしつつ、話半分に受け流している。この人は、話をこぼしてしまうのであって、聞いてもらいたいというわけでもない、ということに彼が幼い時分から気が付いている。だから、聞き流す。そのことに男も別段に不満もない。
 こんなことを考えているんだゼ、と主張したいわけでもないようだし、男には自分が理屈っぽいという自覚があるというわけでもない。ただ、そう思っているであろうということには自覚があるし、それをその女が窮屈に思っていることもわかっている。女は、そんなに考えなくてもいいよ、とも思っているのだが、男はどうしても考えてしまう。
 そういう起こりもしないことを考えてしまうことが、その男のたくさんある欠点のうちのひとつである。つまり、出来もしないことも自分の考えや自分なりのやり方で出来ると思ってしまう。
 彼には、自分にできないことができるようになることがこの上もなく楽しいし、知らないことを理解することは他に代え難いほどにうれしいことのようだ。
 男はあるときに気がついたようだ。現実と向き合い始めた途端に、自分の妄想が顕著になっていく、と。それは当たり前のことなのだろう。その乖離や矛盾を受け入れずに、現実と向き合ったとはいえないし、夢をみているともいえないのだから。
 男は、流す女と男の父親と、つまり親子3人で映画館で観た『風立ちぬ』を想い出していた。あの映画は、妄想する男女のはなしであり、現実を受け入れていく男女のはなしであり、現実と夢を叶えるはなしだった。そして、人生という美しい旅の話であった。