マダラ模様の現実と信じていること
目が醒めると、いつの間にか大人になっていた。ならざるを得なかった。なることを求められた。そういう年齢になっていた。大人になりたくないわけでもないし、もっと前から大人だったという気もする。自分のことは、相変わらずよくわからない。自分の中が、マダラだ。
そういう不安定さによって人の信用を失ってしまった。それも当然なのだ。大人とかそういったこととほとんど同じの概念を持ち出せば、私は現実の世界に生ききることができていなかった。
現実というテーマなんて自分の中にもう何年も前から発想していたことなのに、いまになってもまだ消化し切れていない。やはり現実は現実でないと、現実ではない。
そして、そのことごとは人にはまったく関係のないことだ。それだって現実。生きていくのも現実。自分はただ幸運にも生き延びることができていたというだけであって、ただ許されていたというだけであって、現実とはやはり別に生きていた、生きてしまっていた。
そこから醒めたということ。
マダラであることについては自分の中にも混乱がある。そう頭では理解していることも、無意識なのか本能なのか、もっと自分の奥の方で、そちらを求めてしまっている。現実に生きないことを。大人にならないことを。よほど心地よかったのか。でもそれでは生きてはいけないこともわかっていることだ。
そして、そのことも人には関係がないことだ。勝手に自分の中で咀嚼して、せめて人を傷つけんなよ、壁になるなよ、あし引っ張んなよ、ということ。そういうことを踏まえて人と向き合ったり関わっていくのは、ぜんぜん自然ではない。
現実と向き合うとか、大人になるとか、この年齢として当然のこととか、そういうことを大雑把に概念として考えていても仕方なくて、自分としての現実を、きちんと細分化して一つひとつ向き合っていくということでしかない。例えば人との関係、例えば仕事、例えば自分のやりたいこと。もっと言えば、この人との関係、あの人との関係、仕事のこういうことああいうこと、自分のしたいことについての具体的な何か。具体的に考えるのは当たり前のことだけど、マダラであるという表現をするということは、どこかしらはやはりうまくいっていなくて、それをさえ認識できていない、向き合えていない、ということ。
どっかに自分の弱さが見え隠れしていて、それが不甲斐ないし、それ自体が見て見ぬ振りをしていることの正体なのでは。そこに根があるのでは。自信は何かをやることでしか、芽生えることはない。増長するのではなく、勘違いしてしまうのでもなく、ただただ正しく現実と向き合い続けていきたい。
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自分にはなにもない。人に誇るようなものを自分の属性として持っているわけでもない。「今のところ」とか言いたくなるけれど、今後どんな人生になるのかなんて、まったく想像がつかない。縁も運命もいつも数奇ですから。
自分でこんなことを言うのも変だけれど、目の輝きだけは失いたくない。それだけが自分の生命線である。僕は自分の目の輝きを知っている。何かに希望を持っているわけでもなく、ただ好奇心の塊として、ものを知り理解し、人と向き合い議論して理解していく、その過程すべてを肯定してくれる人と、一緒にいるべきだと思う。それだけは信じている。
なにもない自分にはそれしか信じるものがない、とも言える。死ぬまで自分にとっての現実と自分の大事な人にとっての現実、そのすべてと向き合い続ける持続した勇気が、いまは欲しいのです。