どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

風に吹かれて

 音楽については、音楽をもってしか”正しく”語り得ない
 本については、本をもって
 言葉については、言葉をもって
 愛については、愛をもって
***
 人は、人を愛することも、憎むことも、安易である
 安易だ、という意味は、コントロールできないということ
 そうしてしまうべき何かのエピソードがありさえすれば、あとは自動なのである
 好きになることも、そうしないことも、”簡単”だ、と
 そこには意図が入り込む余地などない
 人はそういう自分の自動さに、時に惑わされる
 自分自身の振る舞いにも、他人の自動さにも
 ***
 好きだった人を、まったく逆に思ってしまうことについて
 ぼくの中にいくばくかの悲しさが生まれる
 なにかのボタンを掛け違っていたら
 まったくべつの結末を迎えていたかもしれない人
 いかなる振る舞いにも、自分自身は現れている
 その人の振る舞いは、きっと偽りなくその人なのだ
 そう思う
***
 風については、風をもってしか”正しく”語り得ない
 風吹けば、桶屋が。
 風吹けば、恋。
 きょうも、風が吹いている
(了)

異邦人の案内

 道をなにげに歩いていると、人が困っているようだった。どこかに行きたいらしいが、そこがどこにあるのかわからないように見えた。よく見ると異邦人のようだ。ぼくの言葉は解すらしい。
 どこに行きたいのか、と尋ねると、よくわからないという。ぼくが言っていることは解るらしいが、どこに行きたいのかわからないのである。不思議な話だ。どこかへは行こうとしているのに、どこへ行こうとしているのかわからない。それでは道案内のしようがない。その人はすっ、とスマホをこちらに見せてくる。そこには
『ぜんぜんわからない』
と書かれている。
「なんのこと?」と訊くと、
「人生のことだ」と応える。そして、そのまま尋ねてきた。
「あなたはどこへ向かうつもりなのか?」
──ぼく? ぼくはどこへ行こうとしていたのか。
「うーん、どこだろうね。家に帰ろうとしていたのかな」
「そうですか。わたしには、行きたいところがあるのです。いつも、そこに向かっている」
 その人は爛々とした目を持っている。しかし、なにも分かっていないようにも見える。厳かな無垢さを感じる。そうして、放っておいたら、どこかへ行ってしまいそうな、危うさがある。車が手に入るのなら、それに乗ってどこまでも行きそうな。ただし、交通ルールを知らないかのような、そんな感じ。
「あなたは、どこに行きたいの?」
 何かをわかったかのように、ぼくは質問した。
「ぜんぜんわからない」
 その人は、そう応えると、その瞳をわたしに向けたまま潤ませた。
「そうなんだ。ぼくもそうかな。ぼくには、できないことだらけだから。大して自由もないし、どこかへ行けるというわけでもないし。やりたいことがあるわけでもない」
「あなたは、なにかをやろうとしていましたか?」
その人は全くの興味を剥き出しにして、そう言った。
「そうだねー。なにかをやろうとしていたかもしれない」
「それは、うまくいきましたか?」
「どうだろうねぇ。うまくいかなかったかもしれない。したいことがなんでもうまくいくわけじゃないよ。人には人の性分ってものがあるからさ」
その人は深く頷いて、こう言った。
「あなたがそれを”できない”ことにまつわるすべての行動は、それをしたくない気持ちの表れです」
「? どういうこと?」
「本当にそれをしようと心から思うのなら、少なくともそれに向かっていくはずです。そうしないのなら、それはあなたの心が現れている、ということです」
「……。」
「わたしはいつもどこかへ向かっている。それは家でもあるかもしれないし、最期に行き着く先は、棺桶です。その途上には、何かが落ちているかも。それを拾おうとしなければ、なにかを得ることはありえないでしょう」
 ぼくは、なんだかつらい気持ちになった。道案内を買って出たのはぼくの方だったはずなのに。いつの間にか、案内人はこの人になってしまった。ぼくは、どこへ向かおうとしていたのだろう。ぼくは、何処かで何かを諦めたのだろうか。そんな自覚もないままに、いつの間にか何かに追われて、日々を過ごしていた。ただぼくは家に帰ろうとしていただけだった。
「生まれたところによって、価値観も美意識も人生観も違います。でも、人間は何処で何をしていても、同じです。自分の幸福を求め続けるだけの生き物だ」
「そうかもしれない。そして、それに……」
 ぼくは気がついていない、と言いかけたところで、ユメから醒めたのだった。

めんどうな男と、それを流す女

 その男のなにが面倒なのかというと、起こり得ないことを妄想してしまうことだ。なにも仰々しいことではなくて、些細なごく普通の生活のことについて、いつも思いを巡らせてしまう。それも変に筋立って考えるのでタチが悪いようだ。前提からして起こりそうもないことをこねこねと頭の中で揉んでから、それをポロっとこぼす。
 例えば、本の上に食べ物を置かないでほしいだとか、電車に乗るときはなるべく車両の真ん中のドアから乗ったほうが座るチャンスは多いだとか、夕立に降られてびしょ濡れになって歩いたら気持ちが良さそうだなー、だとか。
 その男は誰にだってそういうことをこぼすわけではないのだけれど、なんとなくもやもやと頭の中にそういったことが在ると、それがときたま外に出てしまう。
 それを聞く女がいる。いや、聞いている”ふり”をしている女がいる、という方が正しい。男もときどき、いまの理屈っぽいと思ったでしょ、と言ったりする。男も、女が話を流していることなど百も承知である。女はうんざりしつつ、話半分に受け流している。この人は、話をこぼしてしまうのであって、聞いてもらいたいというわけでもない、ということに彼が幼い時分から気が付いている。だから、聞き流す。そのことに男も別段に不満もない。
 こんなことを考えているんだゼ、と主張したいわけでもないようだし、男には自分が理屈っぽいという自覚があるというわけでもない。ただ、そう思っているであろうということには自覚があるし、それをその女が窮屈に思っていることもわかっている。女は、そんなに考えなくてもいいよ、とも思っているのだが、男はどうしても考えてしまう。
 そういう起こりもしないことを考えてしまうことが、その男のたくさんある欠点のうちのひとつである。つまり、出来もしないことも自分の考えや自分なりのやり方で出来ると思ってしまう。
 彼には、自分にできないことができるようになることがこの上もなく楽しいし、知らないことを理解することは他に代え難いほどにうれしいことのようだ。
 男はあるときに気がついたようだ。現実と向き合い始めた途端に、自分の妄想が顕著になっていく、と。それは当たり前のことなのだろう。その乖離や矛盾を受け入れずに、現実と向き合ったとはいえないし、夢をみているともいえないのだから。
 男は、流す女と男の父親と、つまり親子3人で映画館で観た『風立ちぬ』を想い出していた。あの映画は、妄想する男女のはなしであり、現実を受け入れていく男女のはなしであり、現実と夢を叶えるはなしだった。そして、人生という美しい旅の話であった。