どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

ぼくにあいた穴

 君からの帰り道に、ふと、星をみつけた。
 星なんてどこにでもあるなんて、ときどき思う。人だって、どこにだっていると思っていた。でも、そんなことはないって、やっぱり思う。自分が万全の態勢を整えていたって、昼間に見ようと思ったら、星はまぁ、見えない。月がうっすら見えるくらいだ。自分だけの力とか存在だけでは、その姿を確認することさえできない。はたらきかけることなんて、もっと難しい。不可能に近い。
 人にだってそうかもしれないと、君との食事から帰るこの道に思う。自分がどんなに人と出会いたいなぁと本当には思っていたって、出会わないときには出会えない。自分が閉じているときに人と出会っても、自分が気がつかない。空では誰に頼まれるわけでもなく、きょうも星がひかっている。
 この世界の出会いはそのほとんどが、どうでもいいことかもしれない。自分の人生に決定的になることなんて、そうはない。自分でそう決める場合は別だけれど。そして、大抵の出会いは、自分でとりあえずは決めているのではないか。この出会いを良いものにしようと互いに思い合えたふたりは、きっと仲睦まじいふたりになる。そういうことにはとてもいろんな因果があって、個人にコントロールできることは、微かしかない。それでも、自分が、その鍵の一つを握っていることには違いない。自分が閉じてしまったら、どうしようもないのだから。どこにだって出会いはあるかもしれない。どこにもないのかもしれない。それをまず握っているのは、とりあえずは、他ならぬ、自分だ。
 彼女は、僕にそう気がつかせてくれた。開いていることの大切さを。僕に開いていてくれることによって。僕は、彼女を通して開いているという状態を知った気持ちになったのだった。
 星を見ようと空を見上げなくては、星にその焦点が合うことはない。晴れた、日も落ちた夜に、無限遠に焦点を合わせて、空を見上げること。そうすることが星を見つける条件なんだろう。そういう条件みたいなものが、人間にだってあるんじゃないかと、彼女は教えてくれた、僕はそう思っている。
 この世界には、たぶん、いろんな人がいて。そのそれぞれがいろんな気持ちを持っていて。みんな同じってわけでもないけれど、なんとなく似ていて。思惑とか意図とか、コントロールしたいとか、どうでもいいだとか、いろんなことを内包している。でも、生きていて。楽しく、生きようとしていて。たぶん。生きることに、積極的ではない人はたぶんいなくて。生きている限りは。社会の中にいて、いろんな人と関わりながら生きている。どこにだって人はいる。この宇宙のどこを見回しても星があるように。良い人とか、そうでもない人とか、あんまり関係がなくて。自分にとってどうなのか、っていうだけで。みんな、楽しく生きたいっていうだけなのだ。なるべく、楽しく。
 自分の捉え方によって、人は窮屈にもなるし、広々と感じることもあるんだろう。閉じているか、開いているか、それだけなのかもしれない。
 傷つきたくないから閉じているのかもしれないし、そもそも開き方を知らないって人もいるんだろう。生まれたときから開きっ放しです、みたいな人だってときどき見受けられる。窮屈であるときに、そう気がつけないことがある。開いている人が広々しているなぁ、とはあんまり思わないだろう。自分の視界の広さ狭さにまで視線を向けられる人ってのは、たぶんそんなにいない。閉じ気味だよ、とか開いていてあなたはいいね、とか、そういうことを人に感じさせてもらえて初めてわかるものなんだろう。
 トラウマから閉じる人もあるだろう。というか閉じるってことはトラウマによることが多いんじゃないか。開いていることが人として優れているとは言わないけれど、そちらが健康的な状態で、閉じていることが異常なのだとしたら、何かしらの出来事によって閉じて“しまう”、という言い方だってできてしまうんじゃないか。社会的な動物って言い方を採用するのなら、そういうことが言えてしまうんじゃないか。どっちが良いのかは、僕にはよくわからないけれど。
 閉じている自分が不幸せだったか、というと、よくわからない。今だって開いているのかよくわからない。彼女との接点のところにだけ穴が開いていて、そこから社会を覗き見ているような気分。そうやって僕は成っている。だって、そういう人間なんだから、しょうがないじゃないか。開き直るわけじゃ、ないけどさ。
 君からの帰り道に、見つけた星。星は夜空に開いた穴なんだと言い伝えられていた時代もあった。あの星は、僕にあいた穴だったかもしれない。世界を、覗きみるための。