どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分の責任で生きるから、人生は楽しいはずなのだ

 自分のことは、自分でなんとかする以外にない。だって、自分のことだから。だれかが助けてくれることを期待してもしかたないし、人にはどうにもできないことだってたくさんあるのだから。きっと人生に起きる多くのことは、その人自身の意思の力に依っている。やる気のない人をその気にさせることは、とても難しい。間違った人を正すことも。親しい仲でも、家族でも、どうしようもないことはたくさんある。
 人に依存してしまうということは、自分で何かをしようという意思決定を放棄することかもしれない。人任せにしてしまっては、できないことは多いだろう。何より、人には責任を取れないのだ。誰かが取るのなら、自分で決めて、自分でやるしかない、という単純な話だ。
 自分のことを人に頼ろうということは、人の所為にするということだ。自分でその責任を負いたくないということだ。自分のことであるのにも関わらず。そして、人が相手をしてくれないと、あの人が相手をしてくれなかったからできなかったのだ、と言い訳する。自分でやればいいのに。
 何もかもを自分でせよ、というわけじゃなくて、できないことももちろんあるだろう。だけど、できることはなるべく自分でできるようにするべきなんじゃないか。できないなら、諦めるしかない、くらいの意識で。いつも周りに助けてくれる人が在るというわけでもないのだから。
 ただ人の所為にして自分のするべきことを放棄ことは、とても醜いと私は思う。
 私はずっと背中を押されたいと思っていた。人に認められたいと思っていた。そして、人に頼りたいと思っていた。だけど、それは人に依存しているということだ。意欲も、評価も、実務さえも、人に依存していた。それでは、いつまで経っても私の人生は進むはずもなく、ただ空転しているだけだった。
 人に依存するということには、自分のことを人任せにするということには、甘えがある。それでは、人生はやっていけない。人の所為にしている限り、私の人生が進むことは絶対にない。自分の責任において、鍛錬して力をつけて知恵をつけて、具体的に考えて行動することでしか、人生は進まない。
 私の人生は私が100%負うべきだ。誰にも負わせてはならない。自分の責任で生きるから、人生は楽しいはずなのだ、といまは思ってる。