どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

失ってはいけないもの

 ──あたしだけは、あんたの書いたものを読んだぞ、認めたぞ、という心持ちで「いいね」した。
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 心をどう持とうとも、たぶんこの気持ちは、コンピューターを通してでは伝わっていない。相手がどう受け取ったかは永遠にわからない。そこには表情も、仕草も、声の震えも、目の輝きも、ないのだ。ただ相手の通知欄に私のアイコンが表示されるというだけだ。そこにはおそらく、なんの意味も生まれない。
 ネットをすることで失われるものに、私は鈍感になってしまっている。ネットで情報を得るのと引き換えに失っているものがある。何を失ってよくて、何を失ってはいけないのか、自分の中に線は引かれていない。曖昧なまま。ただ承認と欲望と快感と派手に見える何かが、私のコンピューターに踊っているだけだ。
 私はわたしを失っているのではないか。ときどきそんな風に思う。もっとわたしの人生上、大事なことがあるのではないか。この箱の中に、私の求めるものは本当にあるのだろうか、あったのだろうか。安易な刺激に私は踊らされているだけなのではないか。
 ネットでの文字を使った会話。実りのある会話をしたことがあったろうか。それは本当に楽しかったろうか。よくわからない相手と、よくわからない文字交換をして、よくわからないまま、何かに満足したフリをして離れる。別れを言えるのならまだよくて、おざなりに会話が終わることもしばしばだ、というかほとんどだ。人は興味のないことには、どこまでもムジャキに無頓着になれる。
 相手のことをわかった気になるのは、その背後に人間を感じている証拠ではあるけれど、そこに実際に表れているのはただの文字列に過ぎず、それはただ一意的な情報に過ぎない。私はその人のことを、その人が意識して発した文字情報としてしか知らない。私はその人のことを何も知らないに等しいのと同時に、その人は私のことを何も理解していないだろう。ちょっとした感傷がそこにはある。
 「いいね」を「文字列」に増強したところで、ほとんど何も増えているようには感じない。「情報」を伝えることはできても、伝わらないことがある。「私」がわたしとしてコンピューターの中ですり減っていく。何も期待したくなくなってゆく。
 人生においてやるべきことをやるべきであるのに、わたしはそんなものには手を付けず、頭を働かせず、行動せず、ただ指を直情に動かし、消耗していく。その先にあるのは、きっと、緩やかな孤独で、さらにその先には孤独な死。
 何を失っていいのか、何を得るべきなのか。そのためには何をどうするのが良いのか。私は余裕を失っている。
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 ──「いいね」した相手は、今日も離れて行き、私はまた孤独に近づけたのだ。虚しげな会話は不毛に続いていく。私はつぎつぎと何かを失い、やがて、どこにもいなくなったのだった。