どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

成すべき成果さえ明確なら、私にはもっといろんなことができるだろう

 気がつくとやってしまっている失敗や勘違いやバグりをなるべく少なくして、最善手を選ぶことが増えたなら、ぼくの人生はかなり変わるんじゃないかね。
 そこに必要なのは、どんな成果や結果を得たいのかという目論見なのではないか。どういう結果が欲しいのかが分からなければ、最善手の選びようもなく、ただ闇雲に、ただ適当にやってしまうことになる。結果として中途半端な出来のものだったり、必要のないものができあがってしまう。
 やろうとすることに対してこうしたらできる、という方法論がたくさんあることもある。たぶん、どうやってもそれはできる。だけれど、できるものの結果を考えるのなら、最善手はあるはず。というかあるべきだ、と思う。そこまでのことを考えないのであれば、つまりどんな方法でもいいので、形としてできていればそれでいいという程度のクオリティでいいのであれば、適当にやったらいいのだけど、結局それで後悔することが続いていて、ちょっと自分にげんなりしている。
 何かをし始めるときに、何も求めていない時がある。こうしたい、こうなるべきだ、というのがないままに、ただやらなくてはならないから、あるいはただやりたいからやる、というのでは、効率も悪いし、できたものに満足することなどあり得ず、ただなんとなく、終わっていく。
 とにかくダメなことは、前提をすっ飛ばして、「とりあえず」やってみてしまうことだと思う。達成するべきことはなんなのかを度外視して、とにかく手をつけること、感覚として気持ち良いことを、軌道修正せずにし続けてしまうことはけっこう悪手であることが多いなぁと思う。つまりただなんとなくやっていることだ。
 私は、とりあえずやってみる──ほとんど何も考えずに──ことが多いのが問題だと思う。得たい結果が明確にあったなら、そこに真っ直ぐに向かうことだってできたのではないか、と後から後悔する。後悔するくらいなら、初めから最善手を打つことを目論んだ方が良いのではないか。その頭はなんのためにあるのだ。
 私には、何を得たいのかを明確にしようという頭がなかった。何を得たら、私は自分の成したいことを成せるのか、に注視していなかった。クリアー条件はなんなのか、ということ。当てもなく、なんとなくやることがとても多かった。
 得るべきことを明確にすることによって、過程を節制することができるかもしれない。それはつまり、できることがもっと増えるということだ。最低限得るべき結果だけに集中することができれば、得るべき結果を超えたこと──多くは無駄なこと──をしてしまうことを、少なくすることができるだろう。それは結果を見越していないから起こるのだ。達成するべきことはなんなのか、それが明確にわかっているか、そうでないかというのは、けっこう大きな分かれ道だと思う。まず、最終目的地を見定めることはけっこう有用なんじゃないか、と今日は思いついたのだった。
 求めていた結果を得たからといって、満足するかどうかは、また別の話。でも、成したいことを成したなら、達成感はあると、ぼくは思う。
 なんとなくやらずに、明確な達成を望んでやったなら、バグりとか失敗とか勘違いって、けっこう無くなるんじゃねぇの、と。良いことするのも大事だけど、悪手を減らそうとするだけでも、けっこう人生変わるんじゃねぇの、と。