どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分の考えたうちにしか、世界が存在していない人

 最近はときどきある人のことを考えている。その人のことを考えるときには、大抵その人のイヤなところが思い浮かんで、そしてそれはその人と自分の共通したイヤなところなのである。その人のイヤなところを知覚することによって、自分のイヤなところさえも認識してしまっている。その人と私は親子であるので、似ているところがあるのもたぶん当然で、そして似ていること自体がイヤというよりも、イヤなところが共通してしまっている、ということがまた私を落ち込ませる。
 人のイヤなところばかり見ていても仕方ないし、自分のイヤなところを認識するのもイヤなことである。反面教師に、なんて言ったって、どうしようもないことも結構あるものだ。このブログに今まで書いたことも、ほとんどがその人のことについて書いたことと言えるのかもしれない。
 彼には自分の考えたうちにしか世界が存在していないように見える。自分が考えることは全て正しく、間違えるはずもなく、間違っているのだとしたら世界の方だと本当に思っている。そういう人間の存在はその人の周りにいる人にとってはとんだ迷惑である。というか生活全般を奪われることになってしまう。
 その症状は脳梗塞による障害なのだ、ということもできると思う。実際に医師にもそう診断されている。
 そして、そういう考え方は自分自身にも感じることであるのだ。というか、その人を見ていると、自分のことを考えざるを得ない。つまり自分の都合の良いように考えてしまうということだ。その人は、それが過剰であるということ。
 自分の社会に対する立ち位置や振る舞いなどは、自分に都合が良い考えだったと言わざるを得ない。どこかでなんとかなるだろうと高を括っていたわけだから。その担保が欲しいと叫んだって、誰もそんなものは与えてはくれない。ただ自分に都合よく考えていただけなのである。うまくいくべきだ、と、うまくいく見込みがある、のは違う。人に認められてこそ人であるというのに、私は自分の判断だけで、何事もしようとしていた。実現できると思っていた。それは単に安易なのではなくて、そういう風にしか考えることができなかったのだ。
 私も病気を持っている。そのことがどのくらいこのような考えに影響しているのかはわからない。自分を諭し続けるしかないと思っている。
 人がいてこその私である。社会があってこその個人である。この世界では、独りでは生きていくことはたぶん難しい。
 その人には世界は存在していなくて、ただ、自分にとって都合の良い考えがあるだけなのだ。
 そんなわけで、父と離れて暮らすことになった。
 次は、ボクの番だと思う。