実現するために/しようとするために
僕は、何かを実現しようとしてこなかったと最近、思う。自分の願いを実現できるような場にいようとさえしておらず、そういった行動もしていなかったのではないかと思えてしまう。
何かはしていた。でもそれは何かをしていただけに過ぎない。それを実現するために必要なことをしていたとは言えないのではないか。僕はただ、闇雲だった。
何かを実現するためには、そのための場があって、それに関する人がいて、そして、自分がいる、のではないか。
自分だけが空回りしていてもダメで、そしてそのために適当な場があるのだと思う。実現するに見合った場でそれを実行しなければ、それがどんなに良いものであっても見向きもされないのではないか。
実現に向けて自分を高めていくのに、人から学び、人と競い合い、そして認め合うことは、とても有意義である。人は生きている限り、真に独りになることは叶わず、適わず、誰からもどんな対象からも影響を受けないというわけにはいかない。目に触れたもの、聴いたもの、嗅いだ匂い、味わったもの、生まれてから触れてきたあらゆるもの、そして接してきた人々。そういうものが、僕が何かを実現すること──ただしそれは僕が実現したいと思ったことに限らず──に寄与している。影響を受ける相手は人に限らず、人が思いを込めた何かであるかも知れない。例えば、それは書物であり写真であり音楽であり映画であるかもしれない。
人が関与していないものに感化される人だってあるくらいだ。これは伝説であり、逸話にすぎないが、リンゴが落ちるのを見て発想する人だってある。
自分だけじゃない。場だけでもない。出会ったものだけでもない。実現するためには、おそらくまだまだ多くの要素があるのだと思う。
ただ恋がしたいと嘆いていても仕方ない。愛を告げる相手がいないのなら、何も実現することはない。
誰かと会いたいのなら、そういう場に出向き続けるべきだし、人と人の仲介をしてくれる人のそばに居続けるべきだ。そして、自分はどんな人間なのか、ということ。
それは愛や恋だけに限らず、仕事も、趣味も、友人も、家族も、もう何もかもが同じなのだと思う。
そうなのだ。作りたいという欲求、書きたいという欲求、ただそれだけでは作ることも、書くことも能わない。
欲しいと思うだけでは当然に叶わず、それを実現するための条件を冷静に分析し、適え続けなくてはならない。そしてそれは努力とは言わない。当たり前のことだから。刻苦勉励はそのもっと先にあるのだろう。
僕は、何かを実現しようとするべきだし、そしてそのために、まずはそう願わなくちゃあならない。無意識に諦めていることが僕には多すぎる。願わないことを、叶え続けているような気がしてしまうくらいなのだ。
実現していくことにしか、人生はないような気さえしている。