どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

世間知らずに生きて思うこと

 人と人は違った価値観であって、それで当たり前である。そして、だからこそ、互いに理解しようと努めなくてはならない。
 自分についてる属性とか、なんか特徴とか、生きているのだから当たり前にあるのだけれど、そういうことを過剰に気にする必要ないな、と、いまは思う。そうやって保たれる自尊心もあれば、逆に不遜になってしまったりもする。人と違う、なんて当たり前だし、避けようがない。ましてや、そのことで苦しむのは間違っている。でも、それを誇るべきものでもない。当たり前だけどね。
 自分は人と違っていることについて過剰になり過ぎていた。みんなと同じでなければ受け入れてもらえないと思っていた。社会の寛容さを知らなかった。私は井の中の蛙だった。
 あるところで受け入れてもらえないのなら、他でもダメだと思い込んでいた。
そのことは僕の人生を確実に狭くしていた。その思い込みだけが、僕を僕の中だけに閉じ込めていたと言ったら、言い過ぎだろうか。
 ある出来事から、僕は、自分はどこかにいてもいい人間ではないのではないか、と思うようになった。この10年間は、そこからの恢復の時間だったのかもしれない。
 どこにもいてはいけないという感覚、つまり、それは誰からも受け入れてもらえないのではないか、という感覚であったわけだけど、それは今にして思えば、大げさに考えすぎていただけだったのだ。
 誰かに受け入れてもらえなかったからといって、それだけで世界中の誰からも相手にされないというわけではない。
 そこには齟齬もあっただろうし、いろんなことがその時にあったのだと思う。自分にも良くないところがあったかもしれないし、でも、自分だけが悪かったわけでもなかった。というよりも、だれかが悪い、という話でもないのかもしれない。なんだかそうなってしまったのだ。
 僕はどこまでも世間知らずなのだ。うまくいっていることの方がずっとずっと多かったのに、負のことにばかり執着してしまっていた。そうやって、僕の未来は失われていた。視野狭窄であることにさえ、鈍感だったのだ。
 いま僕は人生はどうにでもなるとも思っているし、どうにもならないものだ、とも思っている。コントロールできないことだって当然あるし、運命によって導かれているように感じることだってある。
 たぶん、僕は、自分を愛している。愛し過ぎている。だから、受け入れてもらえないことに痛みを感じていたのだ。その自分は、そんなに大したものだっただろうかと、今は思う。
 人と人は違っていて当たり前なのに、その溝を埋めようともせずに、受け入れない人たちに、私は翻弄されるべきではなかった。
 当時の僕は、正当に考えることができなかった。今だってできているのかわからない。
 僕は、相変わらずの世間知らずである。そのことに開き直らず、多様な世界を、多様な人生を、もっともっと見て、会って、感じて、大いに学び、考えていきたい。思考の柔軟性は、行動力に依存しているんだから。
 ここまで掛かってしまったけれど、こういう風に考えることができるようになって、よかったと思う。
 まだ当たり前に人生は続いていく。どうか、幸せに。