どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

中空に投げやっていた言葉、そして歌

 ツイッターを見ないことにしたらば、とてつもない孤独を味わうことになった。何のつながりもないと思っていた人たちだったのに、こんなにも存在感があったのかと思う。
 LINEを開いてもその一覧には、理由もなくなんでもない話を投げかけるような相手は一人も見当たらない。この人でなければできない会話をする相手というのが僕にはほとんどいない。僕のことを受け止めてくれる人もいない。
 ただ中空に投げやっていた言葉たちは、いま、僕の中に渦巻銀河を作っている。これからは、そう生きることにする。現実を生きるとは、今のところ僕にとってはそういうことなのだ、と、とりあえず決めた。
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 なにも表現する気になれないのは、自分が満たされてしまっているからだ。希望に? いや、空虚に!
 カラにわたしは満たされ、何の役に立たないことばかり考え続けてしまう。
 過去に起きた精神の障りは、ほどけてもなお、わたしの未来を奪い続けている。普通ではなかったことの重荷を今更に背負っている。わたしの遺伝子を受け継ぐ者はこの世に生まれ出でそうにはない。そういう予感が私の中に立ち込めている。そればかりか、人生の節目においてわたしを選ぶ人はいないんじゃないかと不安になる。共に苦労して生きてくれそうな人さえ、巡り会えそうにない。
 理由は様々あるのだが、それらに気がつき始めている今、いまこそが虚空の開始だったのだ。
 わたしが人に受け入れられないであろうその理由に、気が付かずに生きたなら、何も知らずに訳もわからずに一人で生きたなら、その方が幸せだったのかもしれないと思う。気づいて尚、手の施しようのない現状の方が、はるかに空虚は深い。
 現実から目を背けず、現実に獅噛み付き続けるなら、生き残ることはできるかも、しれない。それでも、やはり独りなのだろう。その覚悟はもうほとんどできつつある。
 それは諦めきったというわけではなく、最終防衛ライン、心のセーフティーネットである。いいひとがいて、心通うのなら、僕を受け入れてくれるひとがもしいるのなら、僕の人生はきっと今よりもっと豊かになる。現実という”満ちた”世界で、認められ続け、魅力を保ち続けられるのなら、あるいは。
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 古代人が言葉を得る前に歌っていた歌を最近よく思う。それはきっと、とても哀しい気持ちの時に、その人を慰めてくれるものだったろう。あるいは求愛のものだったかもしれないし、子供が生まれた悦びをその人は歌ったかもしれない。助けを求めるものもあったはず。
 僕はいま、歌にとても救われている。心の滋養となっている。言葉になる以前の、心の底から出でくるその歌声を、思う。誰に聞かせるでもなく、いまも歌ってる。これからも、歌いつづける。独り、歌いつづける。