どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分を悪く思うこと、人を悪く思うこと

 唐突だが、『幽遊白書 19巻』の『SPECIAL DAY』という話になんでこんなに執着していたのか、読んでみてやっとわかった。
 トラウマに付随している楽しかった記憶にわだかまりがあるからだ。僕のは別に催眠術とかではないけど。
『SPECIAL DAY』という話にはいつものごとくいろんな要素が詰まってる。でもそのほとんどは僕にとっては今のところどうでもよくて、この話には「トラウマを解消しようとすると催眠術によってトラウマを与えた人との楽しい偽の記憶が沸き起こってくる」というのがキーになっている。それを解消する話。
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 トラウマだけ解消しても、人生をうまく生きていけない。その楽しかった気分も含めて了解・消化しないと。
 楽しいことをしようとすると、トラウマも一緒についてきてしまう。要は人と接するってことだけども。また同じことが起こるんじゃないかと、どっかで思ってしまってる。それはいろんなことの原因の一つなんじゃないかね。それを清々しく断ち切るような話だから、読みたかったんじゃないの。
 トラウマと楽しいことがセットになっている場合、トラウマを忘れよう、取り除こうとすると、他の楽しかったことも同時に失うことを躊躇してしまう。
 そこには人を悪者にしたくないという気持ちがあるのかも。そうするくらいなら、自分が悪者になったほうがいい、と思っている節はある。そのほうがマシだと。この楽しい思い出を共有していた人たちは悪くなくて、悪いのは自分なんだと。
 なんか人生そればっかりという気もするし、勝手に自分で悪者になっていっているのか、そんなことしなくてもただ悪者であるだけなのかはわからない。少なくとも、自分についての解釈はいつも自分を悪者にする方に落ち着いてるんじゃないか。悪いこと、そうでもないこと、の判断を人の客観に委ねるということをしたことがない。
 現実として人が離れてった時に、自分が悪いのか(そう思おうとするし、そういう要因を探そうとするけれど)人が自分の悪さに罪悪感を抱えて遠ざけようとしているのか、やっぱりよくわからない。
 なんだかいろんなことを考えてしまうのだけど、それを解決しようとするほど人に興味を持てなかったりする。結果としてこうなっている自分はやはり悪いやつなのだ、と思うことでいつも自分を納得させている。
 そのほうが心がなんでか穏やかなのだ。不思議だけど。人のせいにすることをほとんどしないし、したくない。自分に非があったと思いたいのかもしれない。
 そして、自分を悪者にしている自分はやっぱり悪者であって、それはつまり何かを解決しようとしないということなのだから。
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 無意識に人にしている具体的な行動が、自分の内面を示してしまっているのだとしたら、それに抗うことは、とてもしんどいはずだ。
 自分を悪い人間だなんて、本当には思いたくない。でも、そうすることでしか自分を保てないように、自分の考える癖のようなものはできているのではないか。相手が悪いと思うことは、思考停止だ、くらいに思っているのかもしれない。
 きちんとそこのやり取りをして、誰の何がよくないのかをはっきりさせようとしないことには、自分はどんどん壊れていってしまう。というか壊れた結果が今なのだと思うけど。もう一生取り戻せないことが山ほどある。
 素直になること。自分の本心に対して抗ってしまっている無意識(例えば、悪いのは自分だけなのだ、という決めつけ)をなんとかすること。
 自分だけがいつも悪いわけではないし、そこにいた人だけが悪いわけでもない。そこを自分はきちんと判断できていないでいると思う。いつも。
 だからこそ、トラウマと楽しかったことを分離できないのではないか。
 今日はこの辺でおしまい。