どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

心から震えたあの瞬間

 どこかでなにかに心が震えたはずなのに、それがなんだったのかをもう忘れてしまってる。その震撼によってわたしはずっと歩いてきたはずなのに。
 こんなにも執着しているのに、その震源がなんだったのか、覚えていない。わたしはそれを覚えていようともしなかったし、その時にはそれを忘れるわけがない、と思ったのだ。
 そのときには大事だったなにかも、数年後、数十年後には何事もなくこの脳内から消え去ってしまう。
 なんでこうして楽しくてしんどい想いをしながら生きているのか。
 どこから人と違ってしまったのかも解らず、そして、違うということさえもどうでもいいと思ってしまっている。
***
 なにかを込める、ということについて。
 ぜんぶ、あの震えだったはず。
 すべてがあそこから始まっているのに、あのときに撃ち抜かれた穴ぼこはずっとそのままで、わたしはずっとそれを埋めようとしていた。
 なにかを知ることで、
 なにかを理解することで、
 なにかをつくることで、
     表現することで。
 この精神に明いた穴を埋めるためにどうしたらいいのか、ずっとわからないでいた。
 誰といても、
 誰と話しても、
 誰とつながっても、
          満たされない。
 なにを知っても、
 なにを理解しても、
 なにを作っても、
 なにを表現しても、
          たぶん、満たされはしないんだろう。
 撃ち抜かれて精神からもぎとられたわたしの一部は、きっともう、永遠に戻らず、そして、簡単には埋まらない。
 そういうふうにできている。
 たぶん、ヴァンパイアみたいにほかの誰かのなにかを奪い、その人間を自分と同類とすることでしか、わたしは生きることができないのだ。
 わたしが撃たれたように、わたしは撃つんだろう。
 受け取ったバトンを次の走者に渡すということ。
 自分を削り取った弾で誰かを撃ち抜くことでしか、わたしは満たされないんじゃないか。
 わたしを震えさせたなにかを、わたしは覚えていない。
 それでも、よい。
 間違いなくそのことによってわたしは生きた。
 だから、わたしはわたし以外の誰かを、生きさせよう(・・・・)。そうされているとその人が気づかぬ間に。
 それは、わたしにとって無上の悦びとなるはずだから。