どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

世の中の20パー

 人の悪口を言っている人は、他人の悪口を言えるほどに「好い人」なんだろうか?
 どんな人も、悪口を言われるであろうなにかを抱えているものだし、そういうもののない人というのが、ぼくにはとんと、想像がつかない。
 どんなに普通の人も、どんなに好い人も、どんなに真っ当な人も、どんな人格者にだって、人に言われうるなにかをを持っている。
 ある状況では、「男だから」「女だから」「背が高いから」「低いから」「顔が整っているから」「髪が綺麗だから」「アングロサクソンだから」「碧眼だから」「廐戸で生まれたから」どんなことだって、悪口の元となってしまう。
 人の価値観に合わせて生きる必要なんてたぶん、ない。絶対的な価値観などなく、ただ生きやすい価値観とか、人とうまくやっていきやすい価値観というのがあるというだけ。それだって、その文化の中で「だけ」しか通用しないということだって多い。
 知らない人の嗜好に付き合っている暇は、残念なことにない。人生は思っているよりもずっとみじかい。
 悪口を言われるとき、その人の価値観からただ外れていた、というだけのことも多い。それだけで貶められる筋合いなんてないと、ぼくは思う。
 得てして、自分の嫌なところを人に見出すときに、それを過剰に嫌悪してしまうことだってある。その人自身がその自分の嫌なところを自覚していない、ということもあるので、余計に話はややこしいのだけれど。
 世の中の20パーセントはわたしのことが嫌いで、20パーセントはわたしのことを好きで、あとの残りは私には興味を持たない人。そんなふうに考えて「この人は20パーの人やな、」と思ったらいい。
 ハンバーグだってカレーライスだって嫌いな人は嫌いだし、そういうものを食べることができない人はそれを嫌いですらない。嫌いなものだって、あの店のカレーだけは食える、とか、おからのハンバーグだったら、とかそんなこともある。
 嫌悪されたってことは、少なくともその人に関心はもたれている。正か負かは別にして。そうやって人の目に触れているということは、そんなに悪いことでもない、みたいに考えることもできる。20パーに遭遇するくらいには人と触れ合っているナー、みたいな。人と会わなくては、良い方の20パーにも出逢いようがないんだから。
 そいつに時間と気力と意思と労力とあとなんかいろいろをネガティブなことに使わせてやったぜー、とかそんなふうにだって考えられるのかも。嫌悪の表明は言った本人の印象や人格を間違いなく貶める。それでもなんとも感じない自分でいられたら、その人はきっと悔やむのだろう。
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 誰からも好かれるなんてことはありえない。そんな人は存在しない。自分のことを嫌いな人のことを考えるよりも、自分のことを好ましく思ってくれている人のことで頭の中を埋め尽くしたほうが人生は楽しいし、愉快だ。そのことを忘れないこと。
 それに、わたしを好きではなくなった人が何かの拍子に好意的になったり、わたしを好いてくれていた人がそうではなくなってしまうことも往往にしてあるんだろう。その切り替えのきっかけなんて、誰にもコントロールすることなんてできなくて、運とか縁としかたぶん、いいようがない。同じ場に一緒にいても、その人のある面を見たなら、その瞬間に好ましく思ってしまう、ってこともある。
 その人を象徴するような何かを見つけることは、ぼくにとってはけっこう歓びだったりするのだけれど、それはまた別のはなし。
 わたしのことを悪くいう人と出逢ってしまったなら、「勉強になりました。どうもありがとう。もう結構です」と立ち去れば良い。決して、そちらを見てはいけないんだ、とぼくは思う。
 自分を賭して精一杯に生きるなら、きっと、そんなことだって気にはならないんじゃないか、って思ったりもする。脇目を振っている暇はない。
 どーせ振るんなら、視線を、空に。そんな日には、きっと、星月が、きれい。