どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

バス停

 道を歩いていて、ふと、思った。
 このバス停は、どこにつながっているのだろう。

 きっとどこかにつながっていて、乗った人をどこかへ連れて行ってくれる。
 運賃はたったの数百円で、そんなに不快なこともなく、外の変わりゆく景色をただ眺めていられる。
 無数にある道の、どこにだって行けるかと思えるような道たちのうち、
 バスはその路線だけを通って、どこかへと行くのだ。
 乗る人はそれを当てにしているし、
 乗るからにはどこかへ行きたいのだろう。

 わたしは、知らない行き先の書いてあるバス停の前に立っている。
 そうしてどこに着くのかもわからないバス停を見ている。
 どこに着いてもいいのなら、どの道を行っても同じだろう。
 乗り心地なんて構いやしない。
 財布にはいちおう(・・・・)の充分なお金。
 同乗者が、騒ぎを起こさなければいいのだけど。
 バスが無事にどこかへ着きさえすればいい。
 乗りかかったバスのステップには、
「お降りの際はブザーを押してください」の文字。

 バスに乗れば、きっと、どこかへ行けるのだろう。
 けれど、
 わたしは、自分の思うようにどこかへ行きたい。
 どうせ行き先はわからない。
 だから、どこへ着いたっていい。 
 ただ、しあわせでいたい。
 疲れたら、休めばいい。
 乗って欲しい人ができたなら、どこで乗り降りしたって自由なのだ。
 誰に気兼ねすることもない。
 いつかは、どこかへ着くのだろう。
 どこにも着かない道なんてないはず。
 あのバス停は、どこにつながっているのだろう。
 あの日の浜辺だろうか。
 バス停で待つ人を横目に見ながら、わたしは歩き続けた。