どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

もっともっと自分を困らせる

 諦めているというよりは、困っていないということが問題のような気がしてる。
 そういう風に思うようになったのは、あるファッションについての言葉を何かで読んだからだ。つまり、ファッションに興味がわかないのは、「場」に興味がないからだ、というはなし。行きたい「場」に合うように人はファッションを磨く。
 男の人にファッションに興味のない人が多いのは、ファッションを磨かなくても居られる場が多いからだ。それで困らないからだ。人に見られているという発想がそもそもないし、来ている服によって品定めされるという場面は普通には少ない。それは、女の人と比べて、ってことになるけど。
 そして、ファッションに興味がないというよりも、それは、それで、困っていないということなのだろうと、ぼくは思う。いや、困らない範囲で済む場所や状況にいたり、そういう友人といることを無意識に選ぶのだろう。そこら辺に人と人のカーストが成り立って隠れているような気がするけど、というかそこに超えにくい壁があるような気がするけど、それは、それで困らない範囲でやっているのだろう。
 おくりたい人生に合うように、人は自分が困らないようにする。正確には、困ることを無意識に避けるし、困るということ自体を避ける。
 パーティピーポーを是が非でも避ける人もいるし、その逆もまたそうするんだろう。勉強しなくても困らない、と決めてしまえば人はそのように生きるし、与えられた給与の範囲でやっていこうと決めたなら、それで困らない“ことにする”。そうやって困るような選択をあえてしない。
 問題は、「困っていない」ということだ。それは、諦めてさえもいない。諦めることさえも放棄してしまっている。敗北感を味わいたくないのかもしれないし、何かを羨ましいと思う気持ちさえも、鬱陶しいのかもしれない。
 そうやって人は自分の人生を造っていく。困らないように。諦めることのないように。あるいは、諦めの効くように何かの言い訳を用意して。全部が無意識におこなわれる。
 思えば、困っていないこと。そういうことが、私にはたくさんある。女の子と知り合わなくても、外国に旅行に行かなくても、楽しい仕事がなくても、気に入った服を着なくても、困っていない。挙げればキリがないくらい、困っていないことが、この世界にはある。
 でも、自分を困るようにすることは、良いことなんじゃないか、と思う。もっと嫉妬に狂ったらいいし、もっと自分に素直になっていろんなことに執着したほうが人生は楽しい。いろんなことを無意識に諦めてしまうよりは。困ってすらいないことに、楽しいことはたくさんあるだろうから。困ることすらしない、できない人生なんて、なにも楽しくはない。
 恋人が欲しい、こんな仕事がしたい、お金が必要だ、子供が欲しい。自分を解放したら、もっと、自分には自分を困らせることができるだろうに、そうはしないようにしている気がする。だって、そうなってしまったら、困るから。でも、困ることのなにもない人生ほど、つまらないものはない。
 人に困らせられるよりも、自分から困ったほうがぼくには気が楽だ。挑んだ困難は乗り越えようと思えるけれど、不意に降ってくる困難には構えもなく対処の視点も乏しい。やる気も出ない。そして、ある程度困っている人にはそれ以上困りようがない。だって、もうすでに困っているから。その困難さに大小あれど、結局は困っているのだから。いつだって、なにかに困っていたらいい。できたら、自分の用意したことで。
 困っている自分に平然としていたい。平気で困っていたい。それが済んだらまたつぎの困りを自分に課したい。今の世の中は、困りを避けることが簡単になり過ぎている。いろんなことが便利になったけれど、そうやって、人のこころは貧しくなったのかもしれないと、思ったりする。