どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

今わたしが恐れていることリスト

 恐れていることには、自分の欲望が隠れている。本性が隠れている。こうしたい、ってことが直截に現れている。恐れていることときちんと向き合うことができたなら、わたしは自分の本当にしたいことができるだろうし、なりたい自分になれるのだろう。

  • わたしは人に依存することを恐れている。
  • 自分で価値判断をできないことを恐れている。
  • 自分の為したことの良さを判定できないことを恐れている。
  • 正しさに向かおうとしないことを恐れている。
  • 正しくないと指摘された時に、それを判断して受け入れられないことを恐れている。
  • 自分がこういう人間であると、受け入れらないことを恐れている。
  • 人にどう思われてもいいと開き直ってしまったり、その誤解を解こうと思えないことを恐れている。
  • 闘わずに自分の意見を飲み込んでしまうことを恐れている。
  • 人に愛されないまま、受け入れられないままに人生を過ごすことを恐れている。
  • 人とうまくやっていけないことをよしとしてしまうことを恐れている。
  • 自分のしたいことをできないことを恐れている。
  • 自分のしたいことに最善を尽くせないことを恐れている。

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 恐れていることを分析することだと思う。まだまだたぶん他にも恐れていることはたくさんあって、無意識にそれと向き合うことさえも恐れているのだろう。恐れることさえも恐れていることがあるはず。
 とりあえず、リストにしたことと向き合う。
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 依存したいのは、きっと愛されたいからで、愛しているからで。人とうまく生きたいのもそこと関わってくることだろう。要するに依存せずに人とうまく付き合っていく方法、愛される方法、愛する方法を模索する、というわけだけど、そんなことできるのだろうか。依存するということの定義は?
 自分の価値判断や、やったことの評価を自分ですることも、人との関わりの中では重要なことだと思う。どうしても自分の認めている人の評価というのは気になってしまうものだ。それを依存なしにすることは容易いことではないというか、自分には想像がつかない。自分だけの孤立した評価になんの意味があるのか、という気持ちもある。井の中の蛙になりたいわけじゃない。ただ、人の評価に惑わされるのも嫌だ、と思っている。
 正しさの根拠を自分の中に持っていたいのだろうけど、それってけっこう難しいことだと思う。人を受け入れることも誰を相手にしてもできることではない。信頼している人というのはやはりあるし、そうするべきなのか、どうするべきなのか、ということにも考えを持たない。
 自分をどう思われてもいいと思うと同時に、自分がこう思われたい、という自分もある。したことを評価されたい気持ちももちろんある。そしてそれは人に依存しているということだ。
 やはり依存するということについて、考える必要があると思う。
 自分のしたいことに最善を尽くせないこと、その理由はきっと外部的な理由、内部的な理由、様々であると思う。少なくとも自分としてできることを尽くしたい、そして外部的な理由もできる限り排除したい。自分の人生が楽しくあるためには、自分のしたいことを達成することだと思うからだ。そうできないことを、最も恐れていると思う。