どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人にとってのひと、自分というひと

 人は人をどう見たって構わないはず。どんなに歪んだ見方をされたとしても、それがその人の見方であるのなら、それを否定することはできない。人が受ける印象みたいなものを、どのくらい支配できるのかって、よくわからない。印象を意図して受け取らせようとする人もあるし、なるべくナチュラルにいて人が何かを受け取ることについて足掻かない人もある。
 人は人の印象なんて忘れてしまう。ほとんどの人は自分自身のことで忙しく、周りにいる人のことなんて気にも止めてはいない。どうでもいい人のことはどうでもいいのだ。
 自分だけがそのことを気にしてしまっているように思う。ああ思われているんじゃないか、こう思われているんじゃないか、って。でも、それは多分杞憂なんだ。人にとっての人の印象なんて、簡単に書き換わってしまう。良い方にも、悪い方にも。だけど、齟齬だって簡単に起こる。食い違いが起きているとわかっていても誰とだってそれを正せるとは限らない。
 だからこそ、しんどかったりするんだけど。
 ままならないと思うなら、その人から離れるしかないんじゃないか。そういうことの繰り返しだったようにも思う。
 自分の感じたその人が、その人の本質ではないかもしれないけれど、でもその人がそれをしたことが紛れもない事実なのなら、やっぱりそういう部分を持った人でもあるのだろう。
 人と人が接したら、誤解は付きものである。誤解がないわけがない、くらいに思ったりする。つい先日も書いたけれど、欠陥のない人なんていない。人は人を好意的に見つめることも、否定的に見つめることも、歪んで見つめることも、自由である。その人の気の持ちようにも寄る。自分を良く魅せたいと思う相手のことは好意的に見つめるだろうし、あえて距離を置きたい人のことは否定的に見つめるのだろう。男女の間には、歪んで見つめることは常であるようにさえ思う。
 自分とは決して向き合わない人もいる。そういう人がどう人と向き合っているのかは知らない。きっと、その方が上手くやれるのだろう。自分と向き合うことなしに、自分に自信を持つことなんてできないんだとぼくはずっと思っていた。そうでなければ、人と関わることなんてできないんじゃないかと。でも、人と関わることで自信を持つこともあるし、自分と向き合うということも多々である。むしろ、向き合わざるを得ない。そういう自分との向き合い方もあるんだ、と最近は思う。自分とだけ向き合うことだけが、自分と向き合うことではない、というか。
 自分は人を見つめるし、自分自身も見つめている。見つめている相手の瞳の中に、自分を見たりもする。自分で自分を誤解していたり、自分で自分を信用できなくなることもある。人にそうしてしまうように。
 人間関係は、そうやってできているんだ、とそれは当たり前のことなんだけど、当たり前にそう思った。
 この世界には、自信を持たせてくれる人、というのがたぶんいて、そう人と出逢ったと気がついたなら、その人のことを手放してはいけないのだ。それは、人生の無上のよろこびであるのだから。上司とか恋愛とか友人とか、そんなこともまったく関係なく、ただ良い関係として、自分に自信を与えてくれる人のそばにいるべきなんじゃないか、と思う。それは、けしかけてくれるとか、そういうことだけではなくて、その人の存在が励みになったり、その人がいることによって成長への意欲が湧いたり、あるいは生きる理由になったり。
 互いにそう思えるのなら、それはきっと、より良いんだろう。
 人に対してそう在れるのなら、それほどのよろこびは、ぼくには無いような気がしてる。
 いい人生を生きていたいと思う。