どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

忘れないわ

 こんなことってあるだろうか。
 同棲している彼女が突然よく解らないことを言い出した。どうもぼくが誰なのか解らないみたいだ。ただ家に帰りたいと言う。ここが家だよ、と言っても反応は薄い。
「あなたは誰かしら? この部屋に住んでいる人? わたし、自分のことがなんだかわからないの。わたしのこと、教えていただけないかしら?」
 いつもとは少し口調が穏やかというか上品な感じがする。あらたまった言い方というか、丁寧というか。顔つきまでいつもと違う感じがする。緊張しているのかもしれない。
「え、えと、ぼくはあなたの同居人というか、恋人です。たかしと言います。いつもお世話になっております」
 なんだかこちらまで言い方が丁寧になってしまう。なんだか初めて彼女と出会ったときみたいな。
「そう、そうなの。わたしの名前はなんていうのかしら」
 こうなったらやぶれかぶれだ、と思う。とても不思議な感じがしている。
「あなたの名前はあきこです。今日は土曜日。ここはあなたの家です」
 昨日、呑んで帰ってきて、そのまま寝た彼女には特に異変はなかったと思う。いつも通りの金曜の夜だった。起きたらこうなってしまっていた。
「そうなの。もっとわたしのことを話して」
「あなたと出会ったのはバイトで……ぼくはずっと君のことが好きだった。憧れてた。あなたがぼくのことをどう思っていたのかはわからないけど、付き合うようなって、君を知るたびにさらに好きになっていった」
「そう、そうなの。わたしは幸せだったのね」
「本当に、なにもわからない?」
 愛しかった人が、こんなにも愛おしくなるなんて。ぼーっとこちらを見つめている彼女を見ている。
「あなたのことを、わたしは愛していたのね?」
「そう……一緒に東京タワーに行ったり、水族館に行ったり。君との思い出を失くしたくない。君にも思い出してほしい」
 なんだか必死になってしまう。今まであったことがこんな風に無くなってしまうなんて。苦しい。
「わたしのことがもっと知りたいわ」
「君は、絵本が好きで。ほら、ここに在るのもぜんぶ君のものだよ」
 本棚を指差す。彼女は一瞥して、また訊く。
「そう。あなたとわたしはなに?」
「恋人」
「それから?」
「君は独りが好きだったから、ぼくもずっと独りだった。同じ部屋に住んでいるのに。会話はほとんどなくて。まるで空気とか水みたいだった。君がいないみたいだった」
「……」
 一緒に暮らす意味ってなんだろうと思う。彼女のことを愛していた。だけど、居ることが当たり前になっていた。
「君は本が好きで。それはぼくもで。君が本を読んでいる姿勢は美しかった。スピンを掛ける仕草が好きだった。それから」
「それから?」
「あなたほどにぼくを理解してくれている人は今までいなかった。君をこうやって失うのはつらいんだ。君のことだってぼくはたくさん知ってる。これからも、君といたい」
 コップについた水滴が垂れた。流線を通した水滴をその細い指でコップに戻して、彼女は言った。
「そう、それで?」
「結婚しよう」
「わたしでよければ。隆のこと、ずーっと好きよ、出逢ったときから、ずっと。忘れたことなんて、ないわ」
(終わり)