どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

言葉の習得を通して、言語を学ぶ

 今日実施した、友達との勉強会をまとめたものです。
 今回の題材は『ちいさい言語学者の冒険』広瀬友紀著(岩波書店)という本です。子供達が日本語を学んでいく過程を通して、日本語の仕組みの不可思議さがわかるかもしれません。

導入

「おんな」+「こころ」=「おんなごころ」

「おんな」+「ことば」=「おんなことば」

 どういう法則に依っているだろうか?
(大人は)みんななんとなくわかっている。子供はどうだろう?
子供達はことばの秩序を私たちが思うよりずっと論理的なやり方で見出し、試し、整理している。

 2つ目の単語に濁音があると連濁音にならない(ライマンの法則)という法則がある。

テンテンの正体

 子供に質問してみる。

「「た」にテンテンつけたらなんていう?」
 → 「だ」
「さ」「か」でも同様。
 しかし、
「「は」にテンテンつけたらなんていう?」と訊いてみると、
 → わからない、「あ」、「が」、「は」を力んでいうetc

「た-だ」「さ-ざ」「か-が」は「無声音-有声音」の組み合わせで成っている。つまり、口の中の動きは同じで、声帯を震わせるかどうかの違いだけ。

「は-ば」は違う。音を出す場所は喉の奥と唇。音を出すために使うところが違う。
 →子供は法則を知っているから、わからなかったり間違えたりする。
「「ば」からテンテンをとったらなんていう?」と訊いてみたら、
 →「ぱ」と答えるのでは。

「ば」の本来のパートナーは「ぱ」である。
昔は「は」は「ぱ」だった。

ぴよぴよ」鳴くからひよこ
ひかりが「ぴかり」と光る

「し」の特殊性

子供には、「れっしゃずかん」に「し」という文字があることが不思議

「さ、す、せ、そ」      S+(a, ,u,e,o)
「しゃ、し、しゅ、しぇ、しょ」ʃ+(a,i,u,e,o)

「さしすせそ」のうち「し」だけが歯茎より後ろで発音している。
日本語では、「しゃ」を一文字で表すことができないことの弊害で子供には「しゃ」に「し」が使われていることを変に感じる。

理不尽な同じ音

子供「「ち」にテンテンをつけるとなんていうの?」
親 「「ぢ」だよ」(口頭で)
子供「……じゃあ「し」にテンテンは?」
親 「「じ」だよ」(口頭で)
子供「同じじゃん!」

 歴史的には違う音だったが、区別がつかなくなった。
 子供は、「異なる音は異なる仮名に対応している」「テンテンなしの状態で異なる調音をされる音であれば、テンテンがついてもその調音の違いは保存されるはず」という仕組みを学び取っている。
 歴史からくる仕組みの矛盾について指摘してくることもある、ということ。

日本語の一拍とは?

「どん」do+n(日本語)
    don (こちらの方が多い)

donで一音節という単位になっている。
日本語では、ひらがな一つを一単位(一拍)と考える。

「みん・な・うん・ち」

と子供は切る。本能的に音節を知っているから。

「あ・い・う・え・おう・さ・ま」

「おう」で一音節。「なんで「う」があるの?」と訊かれる。

「く・ま・さ・んの」

 母音で終わりたいのかもしれない。「ん」を独立して考えていない。sannoのnとnoの間には音声学的に切れ目はない。

「「かっぱ」はいくつのことば?」

「っ」(促音)次の音の構えをしながら、つまりスタンバイしながら1泊分の長さをおくこと。

「か(っ)・ぱ・あ」

 促音だけを取り出すことはできないものの、全体で3拍でないとおかしいことはわかっているので、謎の帳尻合わせをする。

「かににさされてちががでた」

「蚊に刺されて血が出た」と言いたかったらしい。
 一拍は座りが悪いので助詞を重ねてしまう。
「血ィが」という方言ではあまり聞かれない。

「とうもころし」

「とうもころし」(とうもろこし)
「さなか」(魚)

 音が入れ替わるのは馴染みのある言葉に引っ張られている。(コロコロ、おなかなど?)
 口の中の動きが似ている音を連続させたいのでは、という説もある。

 拍単位よりも小さい単位での入れ替えも起きる。

「かぷかぷして」(ぱくぱくpakupakuして)pとkの入れ替え
「ねむじ」(ねずみnezumi)zとmの入れ替え
「てベリ」(てれびterebi)rとbの入れ替え
「きんぷー」(ピンクpinku)pとkの入れ替え

「死の活用形」

「死む」「死まない」「死めば」

 これをいう子供は、マ行五段活用として認識している。
 ナ行五段活用は現代語では基本的に「死ぬ」だけ
「飲んだ・読んだ・挟んだ・噛んだ」「死んだ」と音が共通しているため、誤解が生じてしまう。つまり、「飲んだ」etcから「死ぬ」の活用形を類推しているということ。
 これを『過剰一般化』という。犬を「ワンワン」と習った子供は、と四足歩行の動物をすべて「ワンワン」と呼んでしまう。

「死にさせる」

他に

「くっつきさして」「動きさす」「起きさせる」

使役(1)「起こす」「動かす」など使役動詞を使う

使役(2)「読ませる」「食べさせる」「着させる」などのように「せる・させる」などの助動詞を使う

(1)は知っているかどうか(出会うかどうか)。
子供は(2)を使って規則を最大限駆使して対応しようとする。

他の例

「みじかくしれる」(短くできる)
「おでかけしれる」(お出かけできる)

→「する」の連用形+れる

「もうこれ消せられない」「漫画読められる」

→可能形の全部乗せ

今日のおしまい

 子供が間違えるポイントを通して、「日本語」のヒミツのようなものを垣間見ることができる。日本語話者にとって当たり前の法則も子供にとっては当たり前ではないからだ。
 私たちが自然であると思っていることが世界基準あるいは人間基準では標準ではないことがわかる。「標準的な言語」などそもそも存在していないと私は考えているが、日本語もやはりそうなのだ。